小さいときにいた病院は? 聞くと同級生は、不思議そうな顔に
最初の記憶はいつごろですか。
1才のときの記憶です。そのころ畑に囲まれたところに住んでいて、お母さん、お姉ちゃんといっしょにさつまいもを掘っている。よほど楽しかったんでしょうね。
そのあとはほとんど病院の記憶なんです。手術台に乗っているところから始まります。みんなに見送られて、私は未知の空間に入っていく。これから何が起こるんだろうと。
お人形さんが置いてある手術室で、麻酔を打たれ、気がついたら終わっていた。目がさめたらベッド脇で、お母さんがトマトをむいていたのをおぼえています。
2才のときのことです。後に知ったのですが、それは卵巣がんの手術でした。
おなかに水がたまって、ふくらんだことがきっかけで見つかりました。右の卵巣を切除して、抗がん剤治療を受けるための入院生活が始まりました。
友達はいましたか。
天才というくらい頭がよかった、まゆちゃん。行動力の塊のような、やり手のなっちゃん。そして私、小児病棟でいちばん目立つ3人組だったと思います。いつもおしゃべりしたり、モノマネをして笑ったり。
そして、お互いのことを察知する能力も高かったので、相手がだるそうだったりすると別の人のところに行って遊んでいました。こっちがだるいときは、静かにしていてほしい。いたければいていいし、みんながいるからといって、いる必要もない。好きに、自由に、自然体で接してもらえる方が楽なんです。みんなお互い、そのことがわかっていました。
そして、退院の日を迎えたのですね。
5才のときです。「退院したのかな?」というくらいの気持ちでしたね。幼稚園に入ってからも体調が安定せず、よく休みました。
小学校に入ったとき、友達に「小さいときどこの病院にいたの?」って聞いたら「生まれたところの病院?」って聞き返されました。「病気で入院してたところだよ」って言ったら「それはより子ちゃんだけだよ」って言われて。
初めてそこで、私はようするに、病気だったんだって、自覚しました。
病棟にいたころ、子どもたちは、みんな自分ではわかってなくても、やれることぜんぶ今のうちにやっておきたいという気持ちで遊んでいました。全力で遊んでいたから、みんな能力もすごく秀でていたと思います。そしてやはり生死については敏感でした。
だから小学校で、男の子がふざけて「死ね」とか言うのを見ると、すごくゆるせなかったですね。意味わかって言ってるのか、と。
伝えるために、生かされた。
音楽をはじめたきっかけは何ですか。
入院していたころ、おじいちゃんがおもちゃのピアノを買ってくれたんです。一音ずつしか出ないピアノが、初めてのピアノでした。おばあちゃんが教えてくれる童謡を私は耳コピーで弾いて、たくさんおぼえていきました。
そして小学生のとき、RPG(ロールプレイングゲーム)にはまったんです。
ちょうど絶妙なタイミングで、自分で音楽やゲームをつくれるソフトが発売されて、自作の音楽を使った自作のゲームをやりはじめました。
音楽は目に見えないけれど、川のせせらぎのような曲だったら川が見えてくるし、村などの風景や、色さえも表現できる。
自分でつくったお話に、曲がついたときに初めて世界が完成して、なんて素敵な世界なんだろう、音楽の仕事に就こうって決意したのです。
それからいっぱい曲をつくりはじめました。小学5年生のときのことです。
そのころ、私がまゆちゃんに手紙を出そうとしたとき、初めてお母さんが教えてくれたことがあります。
「あなたはがんだったのよ」と。
実は、前に私がまゆちゃんに書いた手紙も、お母さんは出せていなかったことを話してくれました。
私が退院した後、まゆちゃんも、なっちゃんも、旅立ってしまった。あのころの友達はほとんど旅立ってしまっていたという事実を初めて聞きました。
その瞬間、私は、なぜ自分だけが今生きているのかを考えました。私は、なにか託されたものがあって生き残ったんだ。「伝えるために、生かされたんだ」って。
すごいショックを受けた5秒後に、そこにいきついたんです。
2006年には、初の全国ツアーが予定されていましたね。
あのころの私は、生き急いでいました。まわりの人が見えていなかった。ピアノと自分が第一だったんですよ。
私はこれをやらなきゃいけないって、使命感を強く感じていましたからね。やりたいようにやって、まわりの人にもさんざん迷惑をかけたと思います。自分の本音を一方的に相手にぶつけるだけ。誰もさわれない、はれもののような子だったかもしれません。
いよいよツアーというときに、腹水がたまったんです。
はじめは、メタボになったと思っちゃって。
ダイエットしたけどよくならず、病院で「卵巣腫瘍。がんの可能性」と診断されました。
ツアーはすべてキャンセルするしかありませんでした。
摘出手術をし、病理検査の結果、良性だということがわかりました。「子どもを産むための機能を持つ部分は残しておいたよ、大丈夫」と、後でお医者さんが教えてくれました。
人が気づかせてくれる、ココロの鍵。
まわりの反応はどうでしたか。
退院した後は、いろんな人が言ってくれるんですよ。「おかえり!」って。その言葉は、ただ「大丈夫でしたか?」ではなくて、待っていたんだよっていうことだから、すごくうれしくって。だから私も「ただいま!」って答えました。
今までは、なんてひとりよがりで、自分だけの音楽をやっていたんだろうって思いました。
それこそ、友達だったあの子たちが言ってるメッセージというのは、たくさんの人に届けてほしいということなんですよね。
生まれてきたことや生きてることの、楽しさとか意味とかを。
私は2度目の手術をしたことで、ココロの鍵を手に入れたと思います。
「おかえり」という、みんなの気持ちがつまったその鍵で自分のココロを開けたとき、すごく楽になったんですよね。
もうガチガチに自分を守らなくていいから。人が入ってくることによって、自分の世界がこんなに広がるんだと知った。
自分では決して気がつかなくて、人に気づかせてもらえる、そんな鍵。そして、開けるかどうかは、自分次第なんだと思います。
そんな流れを引き寄せるような行動を日頃からしなきゃいけないんだとも思います。
小児がんという病気について、今思うことは何ですか。
お医者さん、特に小児科の先生が減っていることがすごく気がかりですね。
小児がんというのは、現在特別に社会的な注目が集まっているとは言えませんが、実はすごくたくさんある病気なんですよね。
根っからの医者魂を持った若い人たちが、どんどんよいお医者さんになっていく環境をつくっていかなきゃいけないし、なにかそこで手伝えることがあれば手伝いたいなって思いますね。
あと、私の経験から言うと、子どもたちは案外、そんなに苦しくなかったりするんですよ。絶望感も抱いていないし。ただ、こうなんだって、自然に受け入れて、明るく楽しく暮らしていて。
でも、まわりの大人が絶望感を持ってしまうことがあります。
ふさぎこまずに、お母さんどうしで悩みを言い合った方がいいと思うし、お母さんたちへのケアもすごく必要だと、大人になって思います。
私の最終目標はチャリティーなので、そのためにも今やれることをしっかりやって、より子というアーティストを成功させなければと思います。
あらためて、みんなに届けたい想いがあれば。
悪いこと、つらいことには、とても意味があって、楽しいんですよ。まるでRPGに出てくる「賢者」のようだと思います。
そういう出来事ほどいろんなことを学ばせてくれるし、つらいことに直面したときほどチャンスなんで、逆にそれを食い物にするぐらいの勢いで、いっぱいそういうものを食べて、生きることをエンジョイしてほしいと思います。
自分のことを大事にしてあげるということが自分自身への礼儀だし、人への礼儀だとも思うんです。
自分をむやみやたらにボロボロにする人は、最低だなって。昔の自分に向かって言ってるんですけどね。
小児がんの子どもたちも、そのときに楽しいと思ったことを徹底的にやってほしいなと思います。
やりたいことはぜんぶやって、お母さんを大切にしてください。
実はお母さんをいちばんケアしているのは、子どもだったりしますからね、病気であっても。
そして、友達を大事にして。ほんとうにやりたいことに向かって生きてほしいなって思います。
私、最近は一週間前のことが遠く感じるんですよ。とてもたくさんのことに出会って、どんどん忘れていく。
でも、ちゃんと魂ではおぼえている。
脳みそでおぼえるのもいいけど、魂でおぼえるのっていいことだなと、思うんですよ。
取材 2009年2月 東京にて