16歳のとき、急性リンパ性白血病を発症
小児白血病の国内症例数は年間700~800件といわれています。そんな中、闘病の末に白血病を克服し、社会復帰を果たす子どもたちも少なくありません。2013年に芸能界にデビューした友寄蓮さんも、その1人です。
病の兆候が現れたのは、2011年の高校2年生の秋。咳や息切れ等の症状が続いていましたが、近所の病院の診断結果は「風邪」。ところが、風邪薬を飲んでも一向に良くなりませんでした。
別の病院で血液検査を受けたところ、白血球に異常が認められました。11月下旬に総合病院を受診し、そのまま入院することに。それが、約1年4カ月に及ぶ壮絶な闘病生活の始まりでした。
「明日は目覚めないのでは」副作用に苦しむ日々
ただ、がんと診断された後も、私自身は毎日すこぶる元気で、風邪もひかないし、疲れやすいということもなかったので、周りが心配するくらい前向きでした。
病名は「急性リンパ性白血病」。まずは徹底的にがんを叩き、治療することが優先されました。そのために大人よりも強い抗がん剤を使ったのですが、副作用が激しく、体は絶え間ない苦痛にさいなまれました。髪が抜け、鼻血が止まらなくなり、左半身は帯状疱疹で水ぶくれに。ひどい口内炎でものが食べられなくなり、顔が満月のように腫れ上がる「ムーンフェイス」も経験しました。
「抗がん剤投与期間中は、その時その時を生きるのに精いっぱいでした。『このまま眠ってしまったら、明日は目覚めないんじゃないか。この先どうなるんだろう』と、不安でいっぱいでした」
楽しく高校生活を満喫している友人たちと会うのが辛くて、メールが来ても返信せず、周囲に対して心を閉ざすようになっていた時期。病室で寝泊まりしながら付き添ってくれた母親を、「どうして健康な体に産んでくれなかったの」と責めたこともありました。
「母は私には決して涙を見せず、『ごめんね』と言いながら看病を続けてくれました。本当に母には感謝しています」
「命の大切さを発信したい」自分にできること求め芸能界へ
闘病中の楽しみの一つでもあった、小児科病棟の年代の違う子どもたちとの交流。そんな中、悲しい出来事もありました。心の支えだった2歳年下の友人が、闘病中に亡くなったのです。
「伝えたいことがいっぱいあったのに、一度もお礼を言えないでいるうちに、あっけなく息を引き取ってしまったんです。感謝の気持ちは先延ばしにせず、ちゃんと言葉にして伝えなければいけない、と強く思いました」
晴れて退院の日を迎えたのは2013年3月のことでした。とはいえ、抗がん剤治療で免疫力は低下したままで、人混みには入って行けませんでした。退院後も肺炎や総胆管結石等で入退院を繰り返し、様々な病気に悩まされる日々。アルバイトの採用面接を受けても、病歴を告げると落とされてしまうことも続きました。女優の杉本彩さんが動物愛護活動に取り組んでいることを知ったのは、そんな時でした。
「中学時代はタレント養成所に通っていましたが、本気で芸能界入りを考えていたわけではなかった。でも、杉本さんの話を聞いて、『私も何かを発信できたらいいな』と思うようになったんです」
今を努力して生きていけば、辛い過去も愛おしく思える
退院から半年後、杉本さんが立ち上げた芸能事務所オフィス彩で芸能活動をスタート。以来、自閉症や白血病をテーマにした舞台作品に出演し、命の大切さを訴え続けています。
座右の銘は「明日死ぬと思って今日を過ごし、未来を生きると信じて今、努力する」。辛い過去を受け入れるためには、その過去さえも愛おしいと思えるような未来を創るしかない。そのためにも、今を努力して生きていきたいと、その言葉に込めた思いを語る友寄さん。昨年5月、経口薬による在宅化学療法が終了しました。
「上野の不忍池に咲く蓮の花が好き。蓮の花は、泥の中で美しく咲ける唯一の花なんです。"蓮(れん)"という芸名も、そこから取ったんですよ」と、友寄さん。
闘病という葛藤の中で結ばれたつぼみは、いつか千の花弁を開き、美しい大輪の花を咲かせることでしょう。
いずれは医療支援や闘病記の執筆もしてみたい、と夢を語る友寄さん
Episode:がん保険に入っていなかったため月の治療が数百万になったことも
私は学資保険には入っていたそうですが、がん保険には入っていませんでした。治療では輸血が続き、治療費が、月額数百万円を超えたことも。
子どものがんは国から治療費の補助があるのですが、20歳で終了してしまいます。一度白血病になってしまったら、保険に入ることは難しい。これからは保険の支えがないまま、長い人生を生きなければならないのです。
たとえ子どもであっても万一に備えて、健康なうちに、お守りのつもりで入っておくことも大切だなと痛感しました。
2015年8月現在の情報を元に作成